DonoCronicle

DIE WAHRHEIT IST IRGENDWO DA DRAUẞEN

ダンジョン

ダンジョン飯』第6巻。

 

 D&D的RPGのパロディ系子孫、と勝手にカテゴライズしているが、毎度楽しませてもらっている。作品にRPGへの愛を感じるのだよね。

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原付と灯油

セルフ式のガソリンスタンドの、灯油だけ売っているコーナーで、原付に給油している姿を見かけた。

もしかしたら灯油のポリタンクが見えないところに置いてあってそれに入れていたのかもしれないけど、ぱっと見た感じでは、あの赤く目立つポリタンクは見えなかった。

原付に灯油を入れていたのだろうか。そんな間違いするだろうか。最近の原付には、灯油で走るタイプがあるのだろうか。スターリング・エンジンとか?

何気なく通り過ぎてしまったが、それとなく気になる。

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元号と年度

ちょっと気を抜いたら4月になっていた。

でも、気を抜かなくても4月にはなる。

そういうカレンダの定めだ。

カレンダの定めといえば、年と年度とのずれに、多くの人が悩まされているかと思う。そうでもないだろうか? ぼくは、その3か月のずれに、小さな傷口がふさがってできたカサブタを取りたくなるくらいには悩まされている。年が一年のうちに二回変わるみたいだし、人間工学的に(?)感覚が拒絶しているような感じがする。ややこしいことこのうえない。

年と年度という、ドが付くか付かないかの違いしかないところも、いっそう問題をややこしくしていると思う。どっちのことを言っているのか、判断がつかないことがよくあったりする。

もういっそのこと、元号は4月から始まって3月終わり、西暦は1月から始まって12月終わり、くらいの大きな改革をできないだろうか。つまり、平成30年は、4月1日に始まって、3月31日に終わるのだ。律儀に1月1日からその年が始まらなくてもべつにいい。年度というものがそういう仕組みなのだし。元号は役所主体で使われていて、役所は年度に縛られているのだから、元号と年度という役所的な用途を一カ所に固めてしまえば、それでせいせいするというものだ。

対外国的には、世界的に統一されたカレンダを使うほうが都合が良いから、西暦はそのままだ。年越し・新年も、西暦にのっとって1月1日で祝えばいい。むしろ、同じ仕組みの同じ年を、元号と西暦の2種類の呼び方で(しかも数はずれているままで)呼ぶほうがややこしい。

どうせ、150年まえに、それまでのカレンダを太陰暦から太陽暦へ仕組みからすべて変えるという大変革を起こしたのだから、これくらい、また変えてみたら、案外新鮮でおもしろいのではないだろうか?

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省略方法

「ケータイ」だけじゃ、何を携帯しているのか判らない、というのが前回の青年の主張だったが、その手の略称はよくある。

「ミシン」なんて、Machine(マシン)の部分が残ったわけで、ただ「機械」と言っているだけだ。よくもまあ・・と思わざるを得ない。今とは違う訛りだったおかげで普通名詞的なマシンとかぶってないけど、かぶっていたら今ごろどうなっていたんだろう。

農機具の「コンバイン」もなかなか。「合体する」だけが残っていて、何と何が合体してどうなったのかがぜんぜん伝わっていない。「ハーヴェスタ」のほうが残ればあまり問題なかったのにと思わずにはいられない。

ええと、あとは、何かあったかな……

よくある、とか言っておいて、いざとなるとすぐには思いつかないぞ。

 

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携帯端末

「ケータイ」は死語になりつつあるのだろうか。まだ絶滅には遠いような気がするが、どちらかというと、スマホ、のほうが出現頻度が高い。ガラケースマホも合わせての総称として、ケータイという言葉は使われているとは思うが、ガラケー方面だけを指しているイメージもある。

携帯電話が普及して、ケータイという略称が広まったときは、そこを残してどうするんだ、と思っていた。その略し方では、モノを指し示している雰囲気ではない。何を携帯しているの?と聞きたくなる。ケータイだけでは、何を携帯しているのかよく判らないからだ。それでも、ケータイはあっという間に広まって、ほぼ普通名詞化した。

あまり携帯電話を持つのは好きじゃなかったけど、もはや持たないわけにもいかなくなっていたところで、日本でも iPhone 3G が発売されたので、すぐに切り替えた。

iPhoneみたいなデバイスになると、もはや電話というものではなくて、大きなネットワークの端末をモバイルにした、言うなれば携帯端末だった。略して、まさにケータイだ。ケータイの略称は正しかったのだ。電話のほうを残さなくて良かった。携帯端末の略でケータイだったのだ。先見の明があったのだ。と思った。

と思ったら、類似商品が一気に普及して、スマホという略称が台頭した。ようやくぼくが見直したところのケータイは、どちらかというと、追いやられていった。そして、なぜだか、今でもスマホという呼び方は、いまいち慣れない。

なんか、いつも、最新の略称には付いていけていないのである。

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昼か? 夜か? いつなのか?

春分の日立春から50日くらいか。天気はいまいち。もっとも、全国的にいまいちだったようだ。ここしばらくだいぶ暖かかっただけに、ずいぶん冷えた感じがする。まだ、雪は降っていない。

SNSのチェックは、ほんとうに時間が取られる。すこし溜めてしまうと、その溜まった分量にひるんで、見るのが億劫になり、ますます見なくなる。そのまましばらく見なくなって、久しぶりにちょっと見たりすると、当然のことながら未読分を全部チェックなんかできないので、それなら別に、そもそも見なくてもいいのでは、という気分になる。クールビズでネクタイを外すのがオッケイだというのなら、そもそもネクタイは別に必須なものじゃないのでは?という気分になるのといっしょだ。

ちょっとした隙間の時間でできるといえばそうなのだが、家に帰ればやりたいことはたくさんあるわけで、他人の状況を知るためにわざわざ時間を割くなんて、もったいない。電車通勤ではないから、行き帰りにチェックする暇はない。仕事の休み時間は、せっかくの休み時間なんだから、できるだけ自分のやりたいことをやってリラックスしたい。他人の状況を知るためにその時間を潰すなんてもったいない。ちょっとした何かの待ち時間なんて、未読を全部をチェックしきれるほどたくさんあるわけもない。となると、仕事時間に見るしかないではないか!

Facebookなんかは、もともと仕事がらみで始めてしまったもので、仕事繋がりがほとんどだから、仕事時間に見るのが正解かもしれない。

みんな、よくチェックして、よくいいねを押して、よくコメントを書いて、よく近況を報告するなあ、と思う。いつしてるんだろうか。AIとかにさせたりしてるんだろうか。

なぜ成人式

もともと式典の類いが好きじゃないからというのもあるけれど、成人式があんなに話題になるのが、不思議。

まず、成人式をなぜ地方自治体にやってもらわないといけないのか意味が解らない。やるなら、家族なり、親族なり、生まれ育ってきた地域社会なり、という関係性のなかでやるものじゃないかと思う。そうでないなら、やらなくて良いと思う。地域社会が発展したものが自治体、と言えなくもなさそうなところが罠で、主体性を放棄して行政にやらせるのは形骸化もいいところだ。20歳のとき、そう思って、成人式には出なかった(クラスメートたちに会いたくなかったからというわけではない)。

早いうちになくなると思っていたけど、なくなるどころか、逆に盛り返してきているような気もしないでもない。そんなにお仕着せのイベントが楽しいのだろうか。学校行事の延長みたいな感覚で楽しいのかな。社会人としての自覚を持ったのなら、成人式なんて出ないのが真っ当な判断のような気がするけど。まあ、出たくて出るのを否定するものではない。出るのがあたりまえ、やるのがあたりまえ、というのはおかしいと思う。

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