DonoCronicle

DIE WAHRHEIT IST IRGENDWO DA DRAUẞEN

春の空気

震災から7年が過ぎた。黙って手を合わせるのみ。

今週はだいぶ暖かくなって、一気に春らしくなってきた。空気が変わった感じがある。この場合の空気は、「周りの空気を読む」の空気じゃなくて、大気の底のほうにあるリアルな空気。何をもって空気が変わったと判断しているのか、考えてみると、温度と匂いだろうか。大気中の微粒子とかも知らずに察知してるかもしれない。湿度(あるいは空気中の水蒸気の量)とかも影響あるかも。単純に温度というだけでなく、風の冷たさとか、陽射しの加減とかの差もあるかもしれない。匂いは、何が原因なのかはよく解らないが、植物や土から立ちのぼるものだろうか。

まあ、分解していくと、何が大きな原因なのかよく解らなくなるが、そういうものを全部ひっくるめて、「春っぽい空気になったな」と感じるのだから、鋭敏といえば鋭敏だし、いい加減といえばいい加減だ。だいたい、人間のセンサはいつもそんな感じだ。

コンセントレーション

今日も、以前にAmazonで予約していた本が届いていた。森博嗣『集中力はいらない』(SB新書)。

まだ読んでないので、以下、内容についてのコメントではない。タイトルを見ての思いつきのメモ。

周りに人がたくさんいるようなフロアで仕事をしていると、とにかく集中はできない。耳をふさぐわけにはいかないので、会話や電話の声が勝手に聞こえてきてそちらに注意を奪われるし、人が動いたら動いたで、それに気を取られる。注意力散漫だ。でも、人間はそういうふうにできてるんじゃないかと思う。注意力が散漫で四方八方に散らばっているから、周囲の情報に敏感になって取り込むことができるし、危険が迫っていたときにも察知できる。

そんなわけで、常に注意力散漫な状態で仕事をしているが、それでもだいたいが済ませられてしまう。そういう職場でやっている仕事は、その程度の仕事だということか。まあ、周りにある仕事の多くは、すでにどこかにある何かを動かしたり組み合わせたりして、またどこかへ移してやる、くらいのことで、実際そんなに頭は使っていない。もうちょっと頭をちゃんと使ってしっかり考えながら仕事をしないといけないんじゃないか、と(若かりしころは)思っていたが、そんなに頭を使うよりさっさと済ませて次の仕事に進め、みたいなのが主流のようだ。それが仕事ができる人だ。

頭のなかから新しい何かを生み出すような仕事をするときは、もうちょっと違う環境に身を置かないといけないかもしれない。

桃のない節句

ひと晩明けて、今日は頭痛が治まった。じつに快適だ。頭痛に低気圧が関係ある、なんて説もあるみたいだけど、どうなんだろう。今日は晴れていた。データを取ってみて、自分の頭痛に関係がありそうかどうか試してみようか。

3月3日の桃の節句が過ぎて、啓蟄が今日のようだ。しかし、桃の花はどこにも咲いていない。暖かい南の地方ではもしかしたら咲いているところもあるのかもしれないが、こちらではあまりに早すぎる。桃の花の上げようがない。

七夕のときも毎年思うけど、旧暦でこそ意味のあった行事を、新暦に合わせて“お引っ越し”してしまっては、元も子もないんじゃないかと思う。まだムシが地面から出てくまえの寒いさなかに桃の節句が来るし、梅雨のど真ん中に七夕が来てしまう。なんかしっくりこないではないか。

北の方に住んでいると、京都や東京を中心に考えられた季節の催し物はやっぱりちょっと早い、というのが普通の感覚になってしまっていて、無意識に時期がずれることを許容している面がある。それにしても、桃の節句の時季外れ感は大きいと、最近になって気になりだした。年のせいか。

旧暦も年によって季節とのずれが大きくなったりするから必ずしも良いとは云えないかもしれないが、それにしても、ずいぶん季節外れの行事を小さいころから無理強いされてきたんだなあ、と思う。そりゃあ、季節感も失われていって当然だ。

カレンダに、大安とか仏滅とか最近できた意味の解らないものはどうでもいいから、月の満ち欠けと旧暦とか、二十四節気とか、そういうものを入れ込むことをメジャーにした方が、季節と共に生きる感覚に敏感になれるんじゃないかという気がする。

まあ、昨今の気象は、過去のデータが当てにならなくなりつつあるから、もうどうでも良くなるかもしれないけど。

ちなみに、今年の旧暦の三月三日は、4月18日のようだ。

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頭痛の日

今日が頭痛の日だ。ときどきやってくる。むかしから肩凝りしやすく、そのへんから来ているのかなと思う。現代人の例にもれず、眼精疲労もひどくて、その自覚もある。眼精疲労が原因となって肩凝りにつながって、それが頭痛に発展しているのか、それとも、肩凝りと眼精疲労は同時多発テロみたいに発生して、相乗効果で頭痛に発展しているのか、そのあたりはよく解らない。いずれにしても、目の奥のほうの頭が痛む。

そういうときは、なぜか耳の中がかゆくなる。どういう相関があるのかは解らない。

偏頭痛という言葉があるが、実際のところ、偏頭痛というのがどういうものを指しているかがよく解らないので、自分の感じている頭痛が偏頭痛なのかそうじゃないのか、これもまたやはり解らない。

できるかぎり医者には行かないので、この頭痛に対する医学的な見解を聞いたことはない。別件でどうしてもいかないといけない場合に行くときの医者は、たいてい、詳しい説明をしようとしない。そういうルールなのだろうか。言っても解らないと思っているのだろうか。よく解らないが、あまりに説明不足だと感じる。どこかの総理大臣よりも説明責任を果たしてないだろう。だから、この頭痛の件も、医者に行ったところでとくに解決されはしないような気が強くする。そもそも、相関があることは解っても、因果関係になると医者もよく解っていないことのほうが多いんじゃないかと、ひそかに思っている。風邪に対して抗生物質を処方するみたいな感じで。

とまあ、ぼやいてみたけど、つまるところ、何もかもが、よく解らないという話だった。

リボはリボルバのリボ

クレジットカードの会社は、くどいくらいにリボ払いを進めてくる。しょっちゅうメールも来るし、実体メールまで来る。ポイントも付くようだ。年会費も無料だ。そこまでしてさせたいのだから、相当危ない、と思うのが普通だと思う。実のところあまりよく仕組みを把握してないけど、概要を聞いただけで、危ないことは解る。

学生の頃に初めてカードを作ったが、当時は、つい使いすぎてしまうのが怖くて、決めたもの以外はカードは使わず、現金に頼っていた。今は、なるべくキャッシュレスにしている。財布を軽く薄くしたいからだ。もう、現金で支払ったという実感がなくとも、数字のやりとりだけで金銭感覚が把握できていると解ったし、カードだからって使いすぎるようなことはないことが解った。自分のぼんやりとした感覚をちゃんと頼りにできるようになったということか。まあ、ワーキングプアな生活も長かったし。

それでもまあ、危ないものは危ないよね。凡人でも危うきに近寄らずだ。

ネジを知らない

自転車のペダルを構成しているプレートが外れた。

両端がネジ1つずつで留められているもので、そのひとつのネジが抜け落ちてしまった。もう片方のネジは残っていたので、そのプレートは落ちずにすんだ。ただ、足の裏から力がうまく伝わらず、思った以上に漕ぐのが大変。

さて、ネジを買わなくては、と思って、残ったもう片方のネジを外して確認してみる。ああ、ネジだね、とは思うものの、いくら眺めていても、どんな規格のネジなのかさっぱり見当が付けられない。普段からネジの種類に気を配って生きているわけではないから、当然といえば当然の結果だ。規格名やサイズも書いてない。ネットで買えないかと思って探してみるけど、ネジのことを知らないから、どのように選んだらよいのかやっぱり解らない。

結局は、ネジを持ってホームセンタに行き、現物と合わせながら探すことにした。さいわい、ほぼ同じようなサイズのものを見つけられた。この買い方が最適解かと思うものの、ネジというものはどの程度共通の規格で作られているのか解らないので、別のネジが同じように失われてしまったときに、同じやり方でホームセンタでネジを見つけられるのかどうか、よく解らない。一個しかないネジだったら、現物合わせもできなくなってしまうから、もっと難儀しそうである。

外国製の自転車だったので、規格が違うんじゃないかとどきどきしていたが、大丈夫だったので、思った以上に国際的に規格が統一されているのかもしれない。同じ径で違うピッチのものがあったりしたら、もう、ほんとうにどうしたら良いのか途方に暮れてしまいそう。

書籍を買う

最近は、新刊で買っているものはアマゾンで予約するようになったので、忘れた頃に発行日が来て、自動的に本が届く。便利だ。一冊ずつだと郵便受けに入れてくれるサイズの荷物なので、わざわざ受け取る必要もなくて楽。何をどこまで予約していたのかが解らなくなりそうで、そこだけは注意が必要だ。

津波ですべての所有物が海の藻屑と化してしまったあと、全面的に電子書籍に切り替えていこうかと迷った時期もあったんだけど、結局、紙の書籍で買っているものが多い。まだ、モノとしての本に価値を見出しているということだろうと(人ごとみたいに)思う。紙の質感がわりと好きだし、装丁も所有欲をかきたてる。電子書籍は、そのへんの気配りがまだぬるいと思う。

新書の形態で出ている実用書みたいな本は、もともとそういった気配りは皆無で、紙の書籍として持つ意味を感じないので、電子書籍で買っている。寝っ転がって布団のなかで読むのには、書籍よりもタブレットのほうが遙かに適している。旅行に行って移動中に読んだりするときも便利。何冊持っていっても重量は一定だ。実に実用的。中身を読みたいだけなら、電子書籍のほうが絶対良い。

電子書籍で不満なのは、ページをめくるというインターフェイスなのに、戻ったりしたときに行の位置が変わってしまうこと。章や節が変わるときなどに、勝手に調整されてしまって、何ページの何行目と特定できない状態になる。書籍で読んでたときの癖なのか、あの文章はページのなかのだいたいあの位置にあったな、と何となく記憶しているので、すこし遡ってまえの文章を探すときに、だいぶ手間取ってしまう。行の座標は固定するか、あるいはページをめくるというスタイルはやめるか、どちらかにして欲しいと思う。

紙の書籍を新品で買ったら、その電子版をかなり割安で購入できる、くらいのサービスはあっても良いと思うけど、そうならないかな。