DonoCronicle

DIE WAHRHEIT IST IRGENDWO DA DRAUẞEN

のんた君は届くのか。

のんた君が届いた。

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森博嗣ファンおなじみの、のんた君である。

講談社タイガTwitterでつぶやいたら当たるかもキャンペーン企画に当選したのだ。

うれしい。かわいい。ころころした感じのプロポーションである。三次元だ。

この写真ではまったく見えないが、口の端のほうを微かに持ち上げて、ほんの少しだけ、にやりとしている。眠そうな眼とあいまって、ニヒルな表情だ。ちなみに、口は一本の糸で構成されている。

着せ替えもできそうだけど、まだ脱がせてみていない。

「のんた君」の名前の由来は、この冬に発売された『つぶさにミルフィーユ』(講談社文庫)で初めて明らかにされたのではないかと思う。そのまえには見た記憶がない(忘れているだけかもしれない)。名前に由来があったこと自体が驚きだった。トリックだと思う。

なんとなく、ゆるやかに、のっぽさんとゴン太くんを思い浮かべたりする雰囲気も、それとなく、自分のなかにはあったのだが、それもまったく打ち消された。どんでん返しだと思う。

オリジナルの「のんた君」は森博嗣さんが所有されていて、それを元に新しくデザインされたのが今回の「のんた君」だから、今回のはウォーカロンみたいなものだろうか。

ちなみに、『つぶさにミルフィーユ』に挟まっている栞にも、のんた君のイラストが描いてある。つぶさに見てみよう。

 

 

MacBookAir が なかまに なった

ちょっとした縁で、リユース品のMacBookAirを手に入れた。

それまで使っていたのは、震災直後に買ったMacBookProで、かれこれもう7年になる。OSのバージョンを「OS X」のマウンテンライオンで止めているので、新しいアプリに対応できていなかったりする(例えばドロップボックスとか)。クロームも新しいバージョンはもうこのOSに対応していないと言ってくる。それでもさほど不便はないし、まだまださくさく動くしで、前線で活躍している頼もしい味方だ。DVDもこれで見られる。

新しいMacBookAir(といっても2014年モデルでさほど新しくはない)は、OSを最新のものにしてみた。これはこれで快適。アプリも臆せず最新版にアップデートして、イラストレータも最新バージョンで使用。

結局、デスクの上にふたつMacBookを並べて使うことになった。ふたつあっても邪魔かな、とも思われたが、これが案外、使いやすい。片方のことをしながら、もう片方のことができる。思った以上に便利だ。やってみるものだな、と思う。

こういうのは、二刀流と呼べるだろうか。

ダンジョン

ダンジョン飯』第6巻。

 

 D&D的RPGのパロディ系子孫、と勝手にカテゴライズしているが、毎度楽しませてもらっている。作品にRPGへの愛を感じるのだよね。

原付と灯油

セルフ式のガソリンスタンドの、灯油だけ売っているコーナーで、原付に給油している姿を見かけた。

もしかしたら灯油のポリタンクが見えないところに置いてあってそれに入れていたのかもしれないけど、ぱっと見た感じでは、あの赤く目立つポリタンクは見えなかった。

原付に灯油を入れていたのだろうか。そんな間違いするだろうか。最近の原付には、灯油で走るタイプがあるのだろうか。スターリング・エンジンとか?

何気なく通り過ぎてしまったが、それとなく気になる。

元号と年度

ちょっと気を抜いたら4月になっていた。

でも、気を抜かなくても4月にはなる。

そういうカレンダの定めだ。

カレンダの定めといえば、年と年度とのずれに、多くの人が悩まされているかと思う。そうでもないだろうか? ぼくは、その3か月のずれに、小さな傷口がふさがってできたカサブタを取りたくなるくらいには悩まされている。年が一年のうちに二回変わるみたいだし、人間工学的に(?)感覚が拒絶しているような感じがする。ややこしいことこのうえない。

年と年度という、ドが付くか付かないかの違いしかないところも、いっそう問題をややこしくしていると思う。どっちのことを言っているのか、判断がつかないことがよくあったりする。

もういっそのこと、元号は4月から始まって3月終わり、西暦は1月から始まって12月終わり、くらいの大きな改革をできないだろうか。つまり、平成30年は、4月1日に始まって、3月31日に終わるのだ。律儀に1月1日からその年が始まらなくてもべつにいい。年度というものがそういう仕組みなのだし。元号は役所主体で使われていて、役所は年度に縛られているのだから、元号と年度という役所的な用途を一カ所に固めてしまえば、それでせいせいするというものだ。

対外国的には、世界的に統一されたカレンダを使うほうが都合が良いから、西暦はそのままだ。年越し・新年も、西暦にのっとって1月1日で祝えばいい。むしろ、同じ仕組みの同じ年を、元号と西暦の2種類の呼び方で(しかも数はずれているままで)呼ぶほうがややこしい。

どうせ、150年まえに、それまでのカレンダを太陰暦から太陽暦へ仕組みからすべて変えるという大変革を起こしたのだから、これくらい、また変えてみたら、案外新鮮でおもしろいのではないだろうか?

省略方法

「ケータイ」だけじゃ、何を携帯しているのか判らない、というのが前回の青年の主張だったが、その手の略称はよくある。

「ミシン」なんて、Machine(マシン)の部分が残ったわけで、ただ「機械」と言っているだけだ。よくもまあ・・と思わざるを得ない。今とは違う訛りだったおかげで普通名詞的なマシンとかぶってないけど、かぶっていたら今ごろどうなっていたんだろう。

農機具の「コンバイン」もなかなか。「合体する」だけが残っていて、何と何が合体してどうなったのかがぜんぜん伝わっていない。「ハーヴェスタ」のほうが残ればあまり問題なかったのにと思わずにはいられない。

ええと、あとは、何かあったかな……

よくある、とか言っておいて、いざとなるとすぐには思いつかないぞ。

 

携帯端末

「ケータイ」は死語になりつつあるのだろうか。まだ絶滅には遠いような気がするが、どちらかというと、スマホ、のほうが出現頻度が高い。ガラケースマホも合わせての総称として、ケータイという言葉は使われているとは思うが、ガラケー方面だけを指しているイメージもある。

携帯電話が普及して、ケータイという略称が広まったときは、そこを残してどうするんだ、と思っていた。その略し方では、モノを指し示している雰囲気ではない。何を携帯しているの?と聞きたくなる。ケータイだけでは、何を携帯しているのかよく判らないからだ。それでも、ケータイはあっという間に広まって、ほぼ普通名詞化した。

あまり携帯電話を持つのは好きじゃなかったけど、もはや持たないわけにもいかなくなっていたところで、日本でも iPhone 3G が発売されたので、すぐに切り替えた。

iPhoneみたいなデバイスになると、もはや電話というものではなくて、大きなネットワークの端末をモバイルにした、言うなれば携帯端末だった。略して、まさにケータイだ。ケータイの略称は正しかったのだ。電話のほうを残さなくて良かった。携帯端末の略でケータイだったのだ。先見の明があったのだ。と思った。

と思ったら、類似商品が一気に普及して、スマホという略称が台頭した。ようやくぼくが見直したところのケータイは、どちらかというと、追いやられていった。そして、なぜだか、今でもスマホという呼び方は、いまいち慣れない。

なんか、いつも、最新の略称には付いていけていないのである。