DonoCronicle

DIE WAHRHEIT IST IRGENDWO DA DRAUẞEN

小きざみな改行をする誌面の見にくさよ

新聞の紙面のレイアウトは、総合的に言って非常に見にくいが、もはや伝統芸能みたいな域に達していると思われるので、文化財的価値を尊重して、新聞は新聞であの路線で頑張ってもらいたいと願っている。そのうち本当の文化財になると思う。

しかし。新聞以外にも、雑誌からまちの広報誌みたいなものまで、かなり短い文字数での改行をしているケースがとてもたくさんあって、常々思うが、読みにくい。一行の文字数が少なければ少ないだけ読みにくい。なんでそんなことをするんだろうと、いつも不思議に思う。

新聞は、一行が12文字とか15文字くらいだろうか。広報誌っぽいものでは、もっと少ないものだってある。なんて馬鹿なことを!とつい思ってしまう。

新聞を読んで育った人には、このスタイルのほうが読みやすのだろうか。そうかもしれない。この小刻み改行のレイアウトがこれだけ日本中に溢れているのだから、それを読みにくいと思う自分のほうがマイナなのかもしれない。

ぼくは文章を読むのは嫌いじゃないほうだけど、読むといえば、新聞や雑誌よりは小説が多かった。だから、文庫本くらいの改行のペースのほうが読みやすいと思っている。40文字くらいだろうか。ノベルス版の小説だと、紙が縦長だからか、1ページが2段構成になっているものがあって、その場合は一行が20数文字くらい。最低でもこれくらいは欲しい。それでもやっぱりもっと長いほうが読みやすいなとは思ってしまう。

小刻みな改行がなぜ読みにくいかというと、ひとつには、文章として捉えにくくなりがちだからだと思う。一文が完結するまでに何度も改行させられるので、文章が途切れ途切れになって次々と脳に流れ込んでくる感じがする。なんというか、処理がせわしない。また、日本語は単語の途中でも遠慮なく改行されてしまうので、単語レベルでもビジュアル的に分断されてしまう。「てにをは」の後で改行されればまだ違うのだけど、文字数が少なくなればなるほど、改行が多くなればなるほど、分断される単語が増えてしまう。単語は、前から順番にひとつひとつ読むというよりも、見た瞬間にひとつのまとまりとして意味を理解することが多いのではないだろうか。だから、単語が改行でぶつぶつ切られていると、いちいち接合するために脳内で余計な処理をしないといけない。文も、同じように、切れていなければ、ある程度ビジュアル的にまとまりとして瞬間的に把握しやすいことが多い。

注釈やキャプションのようなものは、もともとが短い文章表現なので気にならない。むしろ写真や図に合わせてレイアウトしないと、読みにくい。もしかして、文章としてレイアウトしているのではなく、最初からキャプションとして配置されているのだろうか。

ぼくとしてはもはや、短い文字数での小刻み改行は、読ませる気がないのだろうな、と受け取ってしまっているところがある。きっと読ませようとは思っていない。レイアウトとして見た目の収まりが良さそうだからそうしているのであって、読みやすかろうか読みにくかろうが、文字が収まっていればそれでいい、と思っているのではないか。どうせ、ほとんどの人は読まないし。読むやつはどんなレイアウトでも読むだろうし。そんなふうに思えてくる。言い過ぎだろうか。きっと言い過ぎだ。多分、こっちのほうがマイナだし。