DonoCronicle

DIE WAHRHEIT IST IRGENDWO DA DRAUẞEN

ネジを知らない

自転車のペダルを構成しているプレートが外れた。

両端がネジ1つずつで留められているもので、そのひとつのネジが抜け落ちてしまった。もう片方のネジは残っていたので、そのプレートは落ちずにすんだ。ただ、足の裏から力がうまく伝わらず、思った以上に漕ぐのが大変。

さて、ネジを買わなくては、と思って、残ったもう片方のネジを外して確認してみる。ああ、ネジだね、とは思うものの、いくら眺めていても、どんな規格のネジなのかさっぱり見当が付けられない。普段からネジの種類に気を配って生きているわけではないから、当然といえば当然の結果だ。規格名やサイズも書いてない。ネットで買えないかと思って探してみるけど、ネジのことを知らないから、どのように選んだらよいのかやっぱり解らない。

結局は、ネジを持ってホームセンタに行き、現物と合わせながら探すことにした。さいわい、ほぼ同じようなサイズのものを見つけられた。この買い方が最適解かと思うものの、ネジというものはどの程度共通の規格で作られているのか解らないので、別のネジが同じように失われてしまったときに、同じやり方でホームセンタでネジを見つけられるのかどうか、よく解らない。一個しかないネジだったら、現物合わせもできなくなってしまうから、もっと難儀しそうである。

外国製の自転車だったので、規格が違うんじゃないかとどきどきしていたが、大丈夫だったので、思った以上に国際的に規格が統一されているのかもしれない。同じ径で違うピッチのものがあったりしたら、もう、ほんとうにどうしたら良いのか途方に暮れてしまいそう。

書籍を買う

最近は、新刊で買っているものはアマゾンで予約するようになったので、忘れた頃に発行日が来て、自動的に本が届く。便利だ。一冊ずつだと郵便受けに入れてくれるサイズの荷物なので、わざわざ受け取る必要もなくて楽。何をどこまで予約していたのかが解らなくなりそうで、そこだけは注意が必要だ。

津波ですべての所有物が海の藻屑と化してしまったあと、全面的に電子書籍に切り替えていこうかと迷った時期もあったんだけど、結局、紙の書籍で買っているものが多い。まだ、モノとしての本に価値を見出しているということだろうと(人ごとみたいに)思う。紙の質感がわりと好きだし、装丁も所有欲をかきたてる。電子書籍は、そのへんの気配りがまだぬるいと思う。

新書の形態で出ている実用書みたいな本は、もともとそういった気配りは皆無で、紙の書籍として持つ意味を感じないので、電子書籍で買っている。寝っ転がって布団のなかで読むのには、書籍よりもタブレットのほうが遙かに適している。旅行に行って移動中に読んだりするときも便利。何冊持っていっても重量は一定だ。実に実用的。中身を読みたいだけなら、電子書籍のほうが絶対良い。

電子書籍で不満なのは、ページをめくるというインターフェイスなのに、戻ったりしたときに行の位置が変わってしまうこと。章や節が変わるときなどに、勝手に調整されてしまって、何ページの何行目と特定できない状態になる。書籍で読んでたときの癖なのか、あの文章はページのなかのだいたいあの位置にあったな、と何となく記憶しているので、すこし遡ってまえの文章を探すときに、だいぶ手間取ってしまう。行の座標は固定するか、あるいはページをめくるというスタイルはやめるか、どちらかにして欲しいと思う。

紙の書籍を新品で買ったら、その電子版をかなり割安で購入できる、くらいのサービスはあっても良いと思うけど、そうならないかな。

diary と journal の違い

日記、に相当する英語を探すと、diary と journal が出てくる。日本人的には、日記の英語訳といってまず思いつくのは、diary かな、と思う。「はてなダイアリー」っていうのもあったし。

journalは、ジャーナリストやジャーナリズムがまず思い浮かぶし、新聞の名前になっていたりするし、なんか学術雑誌っぽい感じもする。

とはいえ、辞書ではどう使い分けたら良いのか違いがよく判らなかったので、ちょっとネットで検索。やっぱり気になる人はいるみたいで、いろいろ出てきた。

いくつか目を通してみて、おおよそのところをまとめると、どちらも個人的な日記であることには変わりはないが、他人に読まれることを前提としたものが journal 、より個人的で人に見せたりはしないものが diary 、といったところで落ち着きそうだった。

これでいくと、ネットで公開する日記は、ダイアリィじゃなくジャーナルのほうがふさわしいのかもしれない。

他にも、あるネイティヴの意見として、男(guys)が書くのは journal 、女の子(girls)が書くのが diary で、男は diary は書かない、みたいなものもあった。男はカタカナ、女はひらがな、みたいな感じか。

ぼやき

漫然と始めてしまったブログだが、やはりと云うべきか、何をどういう風に書くか、けっこう迷ってしまって、そんなことをしているうちに、どんどんと意欲が低下していくな。

出来事を書くのか、考えたことを書くのか、感じたことを書くのか、自分はどういうスタンスで書くのか、どういう切り口でいきたいのか、毎日更新したいのか、思いついたときに書くので良いのか、そんなに主張したいことがあるのか、別に主張なんかしなくてもいいのか、ちょっと思いついたことを書きたいのか、備忘録なのか、外部記録装置なのか、何でブログをするのか、何で続けるのか、……みたいなところで、どこにも軸足を置かないから、ふわふわしてて立ち位置が定まらない。

とまあ、一服するみたいに、ときどきぼやいてみる。ところで、ぼやく、って漢字はないのかな。ATOKは変換しないな。

ガラパゴス化

今さらではあるけど、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を読んでいる。まだ読み終えてないけど、なかなかおもしろい。

本論はちょっと脇に置いておいて、少し逸れたところで話を拾うが、ちょっと目に留まった文章があったので、メモ代わりにここに残しておく。古代中国の役割を説明をしているなかでの記述。

(前略)日本は、日本語の話し言葉を表すには問題のある中国発祥の文字の使用をいまだにやめようとしていない。 

こういう評価の表現の仕方はおもしろいなあと思うし、また、それが日本の日本らしいところなんだよなあと改めて思った。

朝鮮半島やヴェトナムは、すでに漢字はメインの文字としては使用されず、表音文字に変わって久しい。日本もかつてアルファベット化の検討がされたことはあるものの、実現はしなかった。音を表す「かな」を2種類も作っておいて、「かな」だけの表記に統一されることもない。

そりゃあ「漢字かな交じり文」に慣れた身としては、「かな」だけの文章なんて長く読む気にはならないし、ましてや、ローマ字の文章なんて、とても読めたものではない。漢字を前提とした語彙が大量にあるから、漢字を使わないと、それこそ意味が取りにくい。外国語話者から見ると不合理なようだけど、このスタイルこそが日本語の可読性がいちばん高いのだ、とおそらく現代日本人の多くが思うところだ。ガラパゴス化言語と云えよう。

ありがたいことに、コンピュータへの入力も、日本語インプット・メソッドがしっかり対応してくれて、変換の手間はかかるものの、結果としては問題なく入力できる。もしかしたら、アルファベット圏に比べて倍以上の時間をかけて文字を打ち込んでいるかもしれないけど、3種類もの文字種を使い分けて、日本の話し言葉を表すには問題のある中国発祥の文字の使用をいまだにやめようとしないこの日本語の素敵さは、けっこう捨てがたい。

 

 

文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
 

 

 

ブーツには向かない国

冬になったくらいから、ブーツを履いている。KEENの、くるぶしくらいまで隠れるブーツで、これがしっかりと足をホールドしてくれている感じがあり、窮屈じゃなくて履きやすく、もちろん歩きやすいし、暖かいし、雪道や凍った道でも安心感をもって歩ける。雪は降るけどそれほど積もらないところなので、これで充分。愛用しているといっていい。

しかし、日本で生活していると、靴を脱ぐ機会が多すぎて大変だ。このブーツも、もちろん脇にジッパーなど付いていないので、紐をほどいたり結んだりして着脱しないといけない。これが面倒くさい。

僕の場合は、まず今の職場の建物が、スリッパに履き替えないといけないところだ。だからせっかくブーツを履いて出勤したのに、まずそれを脱がなければならない。ちょっと外に用事があるときにブーツを履くのは面倒くさいので、サンダルを置いていて、それを使っている。ご飯を食べに行っても、座敷に上がらないといけない場合がけっこうある。飲み屋もそうだ。あとは、比較的小規模なコミュニティセンタみたいな公共施設系が、けっこうな割合で靴を脱ぐタイプになっている。人の家にお邪魔するときももちろんだし、まあ、数えていくと切りがないくらい、靴を脱ぎ履きする機会が多い。

欧米人などが、しゃがまずに何かすこし高くなった場所に足を置いて紐結びをしている姿をよく見るけど、日本で靴を履くシーンでは、それにちょうど良さげなオブジェクトはなかなか見つからない。しゃがむか腰掛けるかして、なぜか急かされている気分で、慌てるように紐を結ばないといけない。

精神的なネガティブコストというか、些細だけどじわじわくるストレスというか、とにかくちょっとした億劫さが常につきまとっていて、ブーツには向かない国だな、としみじみ思う。

一年くらいまえに、冬のヨーロッパにこのブーツで行ったときは、さすがにその手のストレスがなく快適だったことを思い返すと、ブーツとはそもそもそういう国で発達したものなんだなと改めて思い知るのだった。

日本でも、うまく生活環境をコントロールできれば、ほとんど脱がずにすむような生活もできなくはないんだろうけど。今は無理。

解っているんなら、履きやすい靴を履け、というところではある。まあ、でも、解っててあえて履いてみたい年頃なのだ。それくらい良かったんだよね、このブーツ。ステルスマーケットじゃないけど。