部屋のなかの、床からだいたい1メートルくらいの高さにある温度計は今、21℃ある。床の上に置いてある温度計は14℃を切っている。7度くらい違う。そりゃあ、足下が寒いわけだ。7度はけっこうな差だ。ちゃんと数字で比較すると、違いが明確になる。
diary と journal の違い
日記、に相当する英語を探すと、diary と journal が出てくる。日本人的には、日記の英語訳といってまず思いつくのは、diary かな、と思う。「はてなダイアリー」っていうのもあったし。
journalは、ジャーナリストやジャーナリズムがまず思い浮かぶし、新聞の名前になっていたりするし、なんか学術雑誌っぽい感じもする。
とはいえ、辞書ではどう使い分けたら良いのか違いがよく判らなかったので、ちょっとネットで検索。やっぱり気になる人はいるみたいで、いろいろ出てきた。
いくつか目を通してみて、おおよそのところをまとめると、どちらも個人的な日記であることには変わりはないが、他人に読まれることを前提としたものが journal 、より個人的で人に見せたりはしないものが diary 、といったところで落ち着きそうだった。
これでいくと、ネットで公開する日記は、ダイアリィじゃなくジャーナルのほうがふさわしいのかもしれない。
他にも、あるネイティヴの意見として、男(guys)が書くのは journal 、女の子(girls)が書くのが diary で、男は diary は書かない、みたいなものもあった。男はカタカナ、女はひらがな、みたいな感じか。
ぼやき
漫然と始めてしまったブログだが、やはりと云うべきか、何をどういう風に書くか、けっこう迷ってしまって、そんなことをしているうちに、どんどんと意欲が低下していくな。
出来事を書くのか、考えたことを書くのか、感じたことを書くのか、自分はどういうスタンスで書くのか、どういう切り口でいきたいのか、毎日更新したいのか、思いついたときに書くので良いのか、そんなに主張したいことがあるのか、別に主張なんかしなくてもいいのか、ちょっと思いついたことを書きたいのか、備忘録なのか、外部記録装置なのか、何でブログをするのか、何で続けるのか、……みたいなところで、どこにも軸足を置かないから、ふわふわしてて立ち位置が定まらない。
とまあ、一服するみたいに、ときどきぼやいてみる。ところで、ぼやく、って漢字はないのかな。ATOKは変換しないな。
ガラパゴス化
今さらではあるけど、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』を読んでいる。まだ読み終えてないけど、なかなかおもしろい。
本論はちょっと脇に置いておいて、少し逸れたところで話を拾うが、ちょっと目に留まった文章があったので、メモ代わりにここに残しておく。古代中国の役割を説明をしているなかでの記述。
(前略)日本は、日本語の話し言葉を表すには問題のある中国発祥の文字の使用をいまだにやめようとしていない。
こういう評価の表現の仕方はおもしろいなあと思うし、また、それが日本の日本らしいところなんだよなあと改めて思った。
朝鮮半島やヴェトナムは、すでに漢字はメインの文字としては使用されず、表音文字に変わって久しい。日本もかつてアルファベット化の検討がされたことはあるものの、実現はしなかった。音を表す「かな」を2種類も作っておいて、「かな」だけの表記に統一されることもない。
そりゃあ「漢字かな交じり文」に慣れた身としては、「かな」だけの文章なんて長く読む気にはならないし、ましてや、ローマ字の文章なんて、とても読めたものではない。漢字を前提とした語彙が大量にあるから、漢字を使わないと、それこそ意味が取りにくい。外国語話者から見ると不合理なようだけど、このスタイルこそが日本語の可読性がいちばん高いのだ、とおそらく現代日本人の多くが思うところだ。ガラパゴス化言語と云えよう。
ありがたいことに、コンピュータへの入力も、日本語インプット・メソッドがしっかり対応してくれて、変換の手間はかかるものの、結果としては問題なく入力できる。もしかしたら、アルファベット圏に比べて倍以上の時間をかけて文字を打ち込んでいるかもしれないけど、3種類もの文字種を使い分けて、日本の話し言葉を表すには問題のある中国発祥の文字の使用をいまだにやめようとしないこの日本語の素敵さは、けっこう捨てがたい。
文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
- 作者: ジャレド・ダイアモンド,倉骨彰
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ブーツには向かない国
冬になったくらいから、ブーツを履いている。KEENの、くるぶしくらいまで隠れるブーツで、これがしっかりと足をホールドしてくれている感じがあり、窮屈じゃなくて履きやすく、もちろん歩きやすいし、暖かいし、雪道や凍った道でも安心感をもって歩ける。雪は降るけどそれほど積もらないところなので、これで充分。愛用しているといっていい。
しかし、日本で生活していると、靴を脱ぐ機会が多すぎて大変だ。このブーツも、もちろん脇にジッパーなど付いていないので、紐をほどいたり結んだりして着脱しないといけない。これが面倒くさい。
僕の場合は、まず今の職場の建物が、スリッパに履き替えないといけないところだ。だからせっかくブーツを履いて出勤したのに、まずそれを脱がなければならない。ちょっと外に用事があるときにブーツを履くのは面倒くさいので、サンダルを置いていて、それを使っている。ご飯を食べに行っても、座敷に上がらないといけない場合がけっこうある。飲み屋もそうだ。あとは、比較的小規模なコミュニティセンタみたいな公共施設系が、けっこうな割合で靴を脱ぐタイプになっている。人の家にお邪魔するときももちろんだし、まあ、数えていくと切りがないくらい、靴を脱ぎ履きする機会が多い。
欧米人などが、しゃがまずに何かすこし高くなった場所に足を置いて紐結びをしている姿をよく見るけど、日本で靴を履くシーンでは、それにちょうど良さげなオブジェクトはなかなか見つからない。しゃがむか腰掛けるかして、なぜか急かされている気分で、慌てるように紐を結ばないといけない。
精神的なネガティブコストというか、些細だけどじわじわくるストレスというか、とにかくちょっとした億劫さが常につきまとっていて、ブーツには向かない国だな、としみじみ思う。
一年くらいまえに、冬のヨーロッパにこのブーツで行ったときは、さすがにその手のストレスがなく快適だったことを思い返すと、ブーツとはそもそもそういう国で発達したものなんだなと改めて思い知るのだった。
日本でも、うまく生活環境をコントロールできれば、ほとんど脱がずにすむような生活もできなくはないんだろうけど。今は無理。
解っているんなら、履きやすい靴を履け、というところではある。まあ、でも、解っててあえて履いてみたい年頃なのだ。それくらい良かったんだよね、このブーツ。ステルスマーケットじゃないけど。
不屈不絆
ふくつふはん、と読むらしい。
最近どこかで見かけた言葉なんだけど、どこで見かけたかは忘れてしまった。気になったので、言葉だけは憶えていた。
広辞苑や大辞林の検索では出てこなかった。ネットで検索するとヒットする。
くじけることなく、何にも束縛されない、という意味らしい。良い意味で解される。
震災からこちら、ずいぶんとフィーチャされた「絆」だけど、絆は束縛するものという意味を強くもっているんだね。不絆、というスタイルは、仏教的な意味合いを含んでいるようにも見える。
旧社会の強すぎる絆を嫌って、都会的なさばさばした生活スタイルが求められ、それが行き過ぎると、また絆が求められる。東京などの大都市は、いろんな意味で災害に対して本当に脆弱だと思うけど、そのひとつの解決策ともいわれる絆社会もけっこう息苦しい。
ゆるやかな絆くらいがちょうど良いと思うけど、その加減はまた実にむずかしい。
不屈不絆、というのは、たしかに憧れのスタイルである。
ちなみに、不撓不屈、といえば貴乃花だ。
僕はむしろ高校生のとき、不屈不撓、という語順の熟語で覚えたので、横綱になるときは、不屈不撓の精神で、と口上を述べようと思っているけど、今のところ横綱になる予定はない。
森博嗣ファン
学生の頃から、作家の「森博嗣」のファンだ。
『すべてがFになる』の文庫版が出たときにはじめて買って読み、それから講談社ノベルスでシリーズの続きを読み進め、そのとき出ていた『地球儀のスライス』まで発行順にほぼ一気に読んだ。ちょうどS&Mシリーズが終了したところだ。登場人物の西之園萌絵と、おそらくほぼ同年代だった。
ちなみに、シリーズ前半5作のあとの短編集『まどろみ消去』を読み終えたとき、完璧に嵌まったと思った。ちょっとまえにブログで短編集について書いてらしたが、シリーズもの5作からのこの短編集の切れ味が、ほんとうに良かった。
当時はまだ自宅はネットに繋いでいなかったけど、大学の研究室で使えたので、検索しているうちに、御本人のサイトとファンクラブのサイトを見つけ、ファンクラブ(略称:PRAMM)にも入った。ちょうど『地球儀のスライス』を読み終えて、ハードカヴァの『ミステリィ工作室』が出たばかりのあたりで、それを買ったのと同じくらいだったと思う。既刊の著作を全部読んだから、ファンクラブに入る資格はあるだろう、と考えた記憶がある(実際にそんな資格は必要ないけど)。
それまでファンクラブなんていうものに入ったこともなかったので、自分としてはずいぶん珍しい行動に出たものだと思う。ネット上だけで運営されていて、オンラインで手続きできるという気軽さがなかったら(今となってはそんなの普通のことだけど)、入っていなかったと思う。今でもしっかり運営されていて、スタッフの方には頭が下がる思いだ。
その後、著作はすべて読んでいる。講演会にも何度も伺った(最近では2015年5月)。グッズも買ったり、当選したりしている。自分にしては、ずいぶんな熱の入れようだ、といまさらながらに思う。まあ、自分の青春をすべて注ぎ込む、というような類いのものではないので、適度に続きやすいというポジションにあるかもしれない。激しく燃え上がるわけではなくて、つねに炭火で燃え続けている感じか(違うか)。
そんなこんなで起きるのが、やっぱり例の311大津波。
蔵書もすべて家ごと流されてしまった。どうしようもない。悲しみに暮れる余裕もない。家があったところの周囲には、他の家のものと混じって自分の所有物も散在していた。なくなっているもののほうがずっと多い。どういう案配なのか、「あれはないのに、何でこれが?」みたいな残り方で、法則性はいまいち掴めなかった。もちろん、見つかったものでも、使えるものはほとんどない。ほぼすべてが「震災がれき」になった。
そんななかで見つかった数少ないもののひとつが、下の写真。
見つかったときは「おおっ」と感動したものの、泥と水で汚れてしわしわでくっついてて、もうどうしようもないので、このケースのなかの文庫本は捨ててしまった。
ただ、外に出ている『スカイ・クロラ』は別だ。今も手元にある。
何を隠そう、特別な『スカイ・クロラ』なのだ。
ファンクラブの企画で、「今度出るノベルス版のスカイ・クロラにはイラストが付きますが、そのイラストレータは誰でしょう?」みたいなのがあって、それに正解して(見ての通り鶴田謙二)、ありがたくも手に入れたものだ。それを示す貴重な証拠もちゃんと入っている(非公開)。
これが遺ったのは、まさに僥倖としか云えない。陳腐なことを云えば、奇跡みたいなものだ。運命的なものを感じる、と云ったらさすがに云い過ぎだ。しかしまあ、たくさんあった他の本はほとんど影も形もないのに、よくぞこれが遺ったものだ。
というわけで、自分にとっては、ますます貴重な一冊になった。
ちなみに、講談社タイガの2周年キャンペーンで、Twitterでつぶやいたら抽選で景品プレゼントというのを昨年末くらいにやっていて、その『森博嗣賞:のんた君ぬいぐるみ』に当選したという連絡があった。当選数はだいぶ少ないという話だから、かなりラッキー。しかも、あの、のんた君ぬいぐるみである。うれしさを噛み締め小躍りする毎日だ。まさに僥倖としか云えない。
と云うか、まあ、たんに自慢かもしれない。慢心注意。