DonoCronicle

DIE WAHRHEIT IST IRGENDWO DA DRAUẞEN

頭痛の日

今日が頭痛の日だ。ときどきやってくる。むかしから肩凝りしやすく、そのへんから来ているのかなと思う。現代人の例にもれず、眼精疲労もひどくて、その自覚もある。眼精疲労が原因となって肩凝りにつながって、それが頭痛に発展しているのか、それとも、肩凝りと眼精疲労は同時多発テロみたいに発生して、相乗効果で頭痛に発展しているのか、そのあたりはよく解らない。いずれにしても、目の奥のほうの頭が痛む。

そういうときは、なぜか耳の中がかゆくなる。どういう相関があるのかは解らない。

偏頭痛という言葉があるが、実際のところ、偏頭痛というのがどういうものを指しているかがよく解らないので、自分の感じている頭痛が偏頭痛なのかそうじゃないのか、これもまたやはり解らない。

できるかぎり医者には行かないので、この頭痛に対する医学的な見解を聞いたことはない。別件でどうしてもいかないといけない場合に行くときの医者は、たいてい、詳しい説明をしようとしない。そういうルールなのだろうか。言っても解らないと思っているのだろうか。よく解らないが、あまりに説明不足だと感じる。どこかの総理大臣よりも説明責任を果たしてないだろう。だから、この頭痛の件も、医者に行ったところでとくに解決されはしないような気が強くする。そもそも、相関があることは解っても、因果関係になると医者もよく解っていないことのほうが多いんじゃないかと、ひそかに思っている。風邪に対して抗生物質を処方するみたいな感じで。

とまあ、ぼやいてみたけど、つまるところ、何もかもが、よく解らないという話だった。

リボはリボルバのリボ

クレジットカードの会社は、くどいくらいにリボ払いを進めてくる。しょっちゅうメールも来るし、実体メールまで来る。ポイントも付くようだ。年会費も無料だ。そこまでしてさせたいのだから、相当危ない、と思うのが普通だと思う。実のところあまりよく仕組みを把握してないけど、概要を聞いただけで、危ないことは解る。

学生の頃に初めてカードを作ったが、当時は、つい使いすぎてしまうのが怖くて、決めたもの以外はカードは使わず、現金に頼っていた。今は、なるべくキャッシュレスにしている。財布を軽く薄くしたいからだ。もう、現金で支払ったという実感がなくとも、数字のやりとりだけで金銭感覚が把握できていると解ったし、カードだからって使いすぎるようなことはないことが解った。自分のぼんやりとした感覚をちゃんと頼りにできるようになったということか。まあ、ワーキングプアな生活も長かったし。

それでもまあ、危ないものは危ないよね。凡人でも危うきに近寄らずだ。

ネジを知らない

自転車のペダルを構成しているプレートが外れた。

両端がネジ1つずつで留められているもので、そのひとつのネジが抜け落ちてしまった。もう片方のネジは残っていたので、そのプレートは落ちずにすんだ。ただ、足の裏から力がうまく伝わらず、思った以上に漕ぐのが大変。

さて、ネジを買わなくては、と思って、残ったもう片方のネジを外して確認してみる。ああ、ネジだね、とは思うものの、いくら眺めていても、どんな規格のネジなのかさっぱり見当が付けられない。普段からネジの種類に気を配って生きているわけではないから、当然といえば当然の結果だ。規格名やサイズも書いてない。ネットで買えないかと思って探してみるけど、ネジのことを知らないから、どのように選んだらよいのかやっぱり解らない。

結局は、ネジを持ってホームセンタに行き、現物と合わせながら探すことにした。さいわい、ほぼ同じようなサイズのものを見つけられた。この買い方が最適解かと思うものの、ネジというものはどの程度共通の規格で作られているのか解らないので、別のネジが同じように失われてしまったときに、同じやり方でホームセンタでネジを見つけられるのかどうか、よく解らない。一個しかないネジだったら、現物合わせもできなくなってしまうから、もっと難儀しそうである。

外国製の自転車だったので、規格が違うんじゃないかとどきどきしていたが、大丈夫だったので、思った以上に国際的に規格が統一されているのかもしれない。同じ径で違うピッチのものがあったりしたら、もう、ほんとうにどうしたら良いのか途方に暮れてしまいそう。

書籍を買う

最近は、新刊で買っているものはアマゾンで予約するようになったので、忘れた頃に発行日が来て、自動的に本が届く。便利だ。一冊ずつだと郵便受けに入れてくれるサイズの荷物なので、わざわざ受け取る必要もなくて楽。何をどこまで予約していたのかが解らなくなりそうで、そこだけは注意が必要だ。

津波ですべての所有物が海の藻屑と化してしまったあと、全面的に電子書籍に切り替えていこうかと迷った時期もあったんだけど、結局、紙の書籍で買っているものが多い。まだ、モノとしての本に価値を見出しているということだろうと(人ごとみたいに)思う。紙の質感がわりと好きだし、装丁も所有欲をかきたてる。電子書籍は、そのへんの気配りがまだぬるいと思う。

新書の形態で出ている実用書みたいな本は、もともとそういった気配りは皆無で、紙の書籍として持つ意味を感じないので、電子書籍で買っている。寝っ転がって布団のなかで読むのには、書籍よりもタブレットのほうが遙かに適している。旅行に行って移動中に読んだりするときも便利。何冊持っていっても重量は一定だ。実に実用的。中身を読みたいだけなら、電子書籍のほうが絶対良い。

電子書籍で不満なのは、ページをめくるというインターフェイスなのに、戻ったりしたときに行の位置が変わってしまうこと。章や節が変わるときなどに、勝手に調整されてしまって、何ページの何行目と特定できない状態になる。書籍で読んでたときの癖なのか、あの文章はページのなかのだいたいあの位置にあったな、と何となく記憶しているので、すこし遡ってまえの文章を探すときに、だいぶ手間取ってしまう。行の座標は固定するか、あるいはページをめくるというスタイルはやめるか、どちらかにして欲しいと思う。

紙の書籍を新品で買ったら、その電子版をかなり割安で購入できる、くらいのサービスはあっても良いと思うけど、そうならないかな。

7度くらい違う

部屋のなかの、床からだいたい1メートルくらいの高さにある温度計は今、21℃ある。床の上に置いてある温度計は14℃を切っている。7度くらい違う。そりゃあ、足下が寒いわけだ。7度はけっこうな差だ。ちゃんと数字で比較すると、違いが明確になる。

diary と journal の違い

日記、に相当する英語を探すと、diary と journal が出てくる。日本人的には、日記の英語訳といってまず思いつくのは、diary かな、と思う。「はてなダイアリー」っていうのもあったし。

journalは、ジャーナリストやジャーナリズムがまず思い浮かぶし、新聞の名前になっていたりするし、なんか学術雑誌っぽい感じもする。

とはいえ、辞書ではどう使い分けたら良いのか違いがよく判らなかったので、ちょっとネットで検索。やっぱり気になる人はいるみたいで、いろいろ出てきた。

いくつか目を通してみて、おおよそのところをまとめると、どちらも個人的な日記であることには変わりはないが、他人に読まれることを前提としたものが journal 、より個人的で人に見せたりはしないものが diary 、といったところで落ち着きそうだった。

これでいくと、ネットで公開する日記は、ダイアリィじゃなくジャーナルのほうがふさわしいのかもしれない。

他にも、あるネイティヴの意見として、男(guys)が書くのは journal 、女の子(girls)が書くのが diary で、男は diary は書かない、みたいなものもあった。男はカタカナ、女はひらがな、みたいな感じか。

ぼやき

漫然と始めてしまったブログだが、やはりと云うべきか、何をどういう風に書くか、けっこう迷ってしまって、そんなことをしているうちに、どんどんと意欲が低下していくな。

出来事を書くのか、考えたことを書くのか、感じたことを書くのか、自分はどういうスタンスで書くのか、どういう切り口でいきたいのか、毎日更新したいのか、思いついたときに書くので良いのか、そんなに主張したいことがあるのか、別に主張なんかしなくてもいいのか、ちょっと思いついたことを書きたいのか、備忘録なのか、外部記録装置なのか、何でブログをするのか、何で続けるのか、……みたいなところで、どこにも軸足を置かないから、ふわふわしてて立ち位置が定まらない。

とまあ、一服するみたいに、ときどきぼやいてみる。ところで、ぼやく、って漢字はないのかな。ATOKは変換しないな。