DonoCronicle

DIE WAHRHEIT IST IRGENDWO DA DRAUẞEN

さようなら、Googleフォト

iPhone上のGoogleフォトをずいぶん久しぶりに開いたら、勝手にアップロードが始まって、それは判っていたことだから、なすがままにしていたのだけど、あとになってGoogleから「アカウント容量の残りがもうないよー」メールが届く。ずいぶんまえに、フォトの無制限アップロードは終了していて、ストレージ上限にあっというまに達しそうになっていたのだった。

無料でバックアップになるのならいいな程度の考えでしか使っていなかったので、これを機にGoogleフォト上の写真はすべて削除することにした。

Googleフォトは、アプリ上で写真を削除すると、デバイスiPhone)に保存されている写真まで削除されてしまうのが恐ろしい。念のためアプリの同期機能を停止してから、削除作業はパソコンのブラウザ上から実施。

残念ながら全消去とか全選択みたいなことができなかったので、シフト・キーを使いながら地道に写真を選択して手動で削除作業をすすめ、全部で30,000枚ほどを消去した。ちょっと時間はかかったけど、気分的にスッキリして、掃除をしたあとみたいな爽快感と達成感を得られるのがメリット。

今後、クラウド上に写真のバックアップを取るかどうかは要検討課題である。写真が年々増えていくのは確実だから、御利用は計画的に考えないと……。

20220222

記念日とかはあまり気にしないほうだけど、0と2だけで構成される年月日の8桁はもう生きているあいだには来ないようなので、だからどうしたという疑念はそっと押し殺して、記念メモである。

ちなみに、3進法の20220222を10進法の数字にしたら5048。20220222を素因数分解したら、綺麗に小さく分解されそうな気もしたけれど、そんなことはなくて、わりと大きい素数がどんっと残って、2×3×11×306367。

だからどうした、という疑念はそっと押し殺す。

ヒトのかたち、ヒトのうごき

遅ればせながら、アマゾンプライムで『閃光のハサウェイ』を鑑賞。

やっぱりモビルスーツは良いなあ。

ヒト型だからってところが大きいと思うんだけど、モビルスーツに限らず、ヒト型ロボットの活躍シーンって、戦艦や飛行機のアクションを見ているときとは、ひと味違った快感があるのだよな。ミラーニューロンが感応しまくっているのかな。それとも、巨人的なものが戦っていることに対する根源的な感情でもあるのかな。自己投影に関連する何かが何かしているのだとは思うけど。

年の瀬

というわけで、もう年の瀬である。

10月、11月も更新を飛ばしてしまった。とくにこれといった大きな原因があったわけではなく、ひと言で云うと、単に面倒くさかっただけだ。なかなかパソコンのディスプレイとキーボードに向かう気になれず、ついポケットからiPhoneを取り出してリクライニングチェアで眺めるだけになってしまう、おつかれさまの毎日である。疲れるのは生きている証だから、まあ、そんなに悪くはないと云える。

それでは、皆さま良いお年を、というところで終わろうとしたが、何気なく冒頭で使った「年の瀬」の「瀬」が気になった。なんで「瀬」なんだろう。「瀬」には終わりのほうという意味があるのだろうか、と思ったが、調べてみてもそんな意味は辞書には載ってない。ざっとネットを調べてみると、どうも、師走の慌ただしさ、せわしなさ、あっという間に過ぎていく時間というようなシチュエーションを表現するのに、川の早い流れを意味する「瀬」を取り合わせてみた、という感じで使われたのが定着して、年末の時期を表す表現になったようだ。これは知らないと解らんタイプだ。「瀬」はあくまで「瀬」でしかなかったのに、なんとなく暮れや終わりを示すものだと思わされていたようだ。いつからそうだと思っていた?

それでは、皆さま良いお年を。

「ひゃくとうばん」の謎

幼少のころに勘違いしていたシリーズ、第2弾。

パトカー(警察)を呼ぶ電話番号は「110」。解る。親や祖母はこれを「ひゃくとうばん」と言う。これがいまいち理解できない。

「ひゃくとうばん」を「100当番」だと思ったのだ。だから、「ひゃくとうばん」じゃなくて「ひゃくじゅうとうばん」じゃないか、というのが、幼きぼくの主張である。

あっさり論破されて、「ひゃくとうばん」じゃなくて「ひゃくとおばん」であり、漢字で書くなら「百十番」だ、という答えが提示されるわけだが、これでスッキリしたかといえば、どうもモヤモヤは晴れないのである。

ふつう、110を「ひゃくとお」って言うか? 聞いたことがない。誰もそんな発音しない。誰だって、数え上げていったら「ひゃくきゅう」の次は「ひゃくじゅう」だ。警察の「百十番」のときだけ、なぜか「ひゃくとお」と読む。わかるかそんなもん。ずるい。不自然だ。ひねくれている。素直じゃない。

こうして、よく解らない大人の慣習によって、純真でいたいけな子どもの心も徐々にひねくれていくのであった。

「伯父さん・伯母さん」と「叔父さん・叔母さん」

小学生のときだったかと思う。「おじ」に伯父と叔父という漢字の書き分けがあるのを知ったとき、これは父方の「おじ」か母方の「おじ」かで書き分けているに違いない、と直感で閃いた。

小学生のぼくの直感は見事に間違っていたわけだが、同じように思う人もけっこう多かったんじゃないか、と予想する。実際には、父方母方関係なく、自分の親の兄にあたるか弟にあたるかで書き分けているわけだけど、そちらの違いよりも、父方か母方かの違いのほうが、自分にとっては大きな違いだ、というのが今の日本人のリアルじゃないかと思う。

年上か年下かで漢字を書き分けるのは、いかにも儒教的世界っぽい。漢字が違うんだから、中国では発音も違うわけだ。日本語では発音は違わなくて字だけ当てているので、日本においては、もともとそういう区別はしていなかった、ということになるだろうか。それどころか、親戚であるかどうか関係なく、ひろく中年の人々を指す言葉も「おじさん・おばさん」なのだから、そもそも親戚かどうかもあまり重要じゃなかったのかもしれない。古から日本では、ほとんど区別せずに「おじさん・おばさん」的にひとくくりだったのだろうか。それとも、古の日本ではもっと細かく呼び名が分かれていたのだろうか。そのあたりはよく知らないけど、調べたら面白そうだ。

ちなみに、ぼくには、父方のおじには伯父しかおらず、母方のおじには叔父しかいない。(音読すると何を言ってるのかさっぱり判らない)