DonoCronicle

DIE WAHRHEIT IST IRGENDWO DA DRAUẞEN

Facebookが苦手な理由

強い忌避感があるわけじゃないけど、なんとなくFacebookは苦手。

そういう人はたくさんいるし、その理由も巷に溢れている。たぶん、もう散々言い尽くされている。でも、別にそれを知りたいわけじゃないから検索したり探してみたりしたことはない。実のところ、なんで僕はFacebookに苦手意識があるのか、よく解ってはいない。

それで、やっぱりFacebookは苦手だなあ、となんとなく思いつつ、かと言ってすっぱりやめるでもなく、頻繁に更新するわけでもなく、ふとした拍子にたまにチェックして、またそっと閉じてみて、ちょっとイベントがあったからちょっとアドレナリンが出て勢いで書いてみたりして、またそっと閉じてみて、といったことの連続で、だらしのない関係を続けているみたいになっている。

たまに、なんでFacebookが苦手なんだろうとぼんやり考えるときがある。ちゃんと考え始めれば理由はたくさん出てきそうではある。まあ、何かと面倒くさい、というのがいちばんの理由な気はするのだけど、それを言っちゃあおしまいなので、ここでひとつ、ちょっと焦点を絞って苦手な理由をひとつ抽出してみたい。今から考える。書いたらスッキリするかも。

改めて自分のFacebookを遡ってみると、始めたのが2013年のようだから、もう7年くらいになる。存在は知っていたもののやるつもりはなかったのだけど、職場のしがらみがあって始めることになった。だからきっかけは、職場関係だ。だからそこで想定していたのは、仕事の付き合い上でのネットワークであり、そこに登場する自分は「社会人/職業人」としての自分である。

でも、Facebookは、仕事とプライベートの境界が果てしなく曖昧だ。仕事上の付き合いのあった人の近況が様々なかたちで流れ込む。仕事のことを語る人もいれば、全然関係ないことを語る人もいれば、かなりプライベートなことを語る人もいる。それが他人向けの発信用にデコレートされたものだとしても、他人のプライベートが流れ込んでくる。また、いったんFacebookを始めてしまうと、その広がりのなかで、仕事とはちょっと違った関係の知人友人とも繋がっていくことになる。そして、仕事上の知人とプライベート上の知人が同列に並ぶ。「社会人/職業人」としての自分と、「プライベートや趣味」の世界にいる自分とが、渾然一体となってミックスされる。境目がなく、立ち位置が不安定になる。公私混同の状態だ。これがたぶん、落ち着かない。

仕事時間中には(もちろんのことながら)プライベートな作業をするわけにはいかない。休みの日のプライベートな時間には(もちろんのことながら)仕事のことなんか考えない。そういうのが、それまでの普通のスタンスだったのだ。ぼくは、やりたいことや好きなことや興味のあることを仕事にしたわけではないので、仕事はあくまで仕事、である。プライベートとは別である。仕事上の知人とプライベートでも親しくなることはもちろんあるが、それはそうと解った上での関係であって、無秩序に流れ込んでくるわけではない。それが、Facebookでは、そのへんが全部曖昧にだらだらと繋がってしまう。

プライベートでもビジネスでも裏も表もほとんどなくいつも通りの自分でGO!みたいな人だったら良かったのかもしれないが(そういう人向けのSNSなのかもしれないが)、そんなことはなくて、やっぱり公私の区別はわきまえるもの、という感覚が残っている。むしろ、仕事はプライベートに染み込んでこないで欲しいし、一方で、仕事にプライベートをにじませたくない。だから、そこが混ぜこぜになって、仕事でもプライベートでも常に同じバランス感覚でライフハックしてGO!みたいなFacebookは苦手。こんなところだろうか。

うーん、これは、最初から、Facebookは仕事だけって割り切ってしまえば良かったんだなー。

しかし、しかしだね、諸君、仕事だけって割り切ったら、何も書くことがないじゃないか。仕事中にFacebookはできないし、プライベートな時間にまで仕事したくないし。そこでなんとかうまく使いこなしてみよう、なんて変な気を起こして無理を考えたから、足元が不安定になってぐるぐると渦巻の中に飲み込まれていったんじゃないだろうか? そう考えると、やっぱり、そもそも始めたのが間違いなんじゃないのか、という結論に落ち着いていきそうな……

アクティヴに続けている人は、そのへんを要領良く割り切ってやっている、ってことなんだろうなあ。そうか、単に要領が悪く不器用なだけなのか、自分。

ちなみに、いつの間にかタイムラインにミャンマー語とかが溢れてて、何書いてるか全然判らなくてカオス。自分も何を書いたらいいのかもう解らない。