DonoCronicle

DIE WAHRHEIT IST IRGENDWO DA DRAUẞEN

年の瀬その2

というわけで、もう年の瀬である。

今年は、仕事上の環境変化が慌ただしかったので、いつにもまして、あっというま感が強い。ひさしぶりに飛行機にも乗った。海外へはまだ行けていない。来年は行けるだろうか。機は満ちている。やりたいことはたくさんあるので、なるべく仕事上の雑事に精神的には振り回されないようにして、私的領域のプロジェクトをこつこつと進めていきたいものである。つまり、いつもと抱負は同じ。年末のような節目になると、どこかリセットして一新したくなる気分になるが、だいたいいつも、気分だけで終わる。生きている限り、人生に切れ目はない。犀の角のように、ただ独り歩むのみである。

良いお年を。

使い魔の視点

魔法使いが「使い魔」を操ってその感覚などを共有できる、っていうのはファンタジィ界隈ではよくある設定だ。自分がかつて親しんだところではロードス島戦記と世界を共有している「ソード・ワールドRPG」なんかがそうで、ソーサラー(魔術師)がそんなに高くないレベル(レベル3?)で覚えられる魔法で、使い魔にした動物の視覚や聴覚などを共有できるんだけど、なかでも飛行タイプの使い魔(梟とか鴉とか)って、冒険者にとってめちゃくちゃ便利だなあ、と今さらながら思った。

要は、ドローンが常に自分のそばにあってその映像をリアルタイムで見られるというすてきな状況にあるわけで、ドローンが身近にある今になって、改めてその有用さが実感できたというか。航空写真もない、地図だってどこまで正確かわからない(であろう)世界で、見知らぬ土地を旅する冒険者にとって、便利なことこのうえないはず。

人里離れた山林で、グーグルマップの航空写真を頼りに道を探していて、ふとそんなことを思った2022年の11月。

 

"ヴ"を守りたい9月

外務省による外国名の表記からは、すでに「ヴ」が消えている。

どうも日本政府的に「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」表記はなくしていこうという考えがあるようだ。お役所関係の文書では、ほぼ使われていないらしい。どうせ、発音すると「バビブベボ」にしか聞こえないから「バビブベボ」に統一でいいだろう、というどんぶり勘定的な思惑と思われる。新聞も同様である。

なにしろ、日本政府も新聞も、常用漢字表にない漢字すら使わないようにしているのだ。「ヴ」も然りということである。

「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」は残していきたい。理由はシンプルで、好きだからだ。格好良い。味がある。味わい深い。ぼくの心の奥にひそむ厨二病的な琴線に響くのである。なくしてしまうのはあまりにも惜しい。だから、できるだけ使っていきたい。

たとえば、ヴァイオリンとバイオリンは、思い浮かべる物体はどちらも同じものだけど、文字を見たときに受けるイメージは違う。やっぱり、ヴァイオリンだよな、と思う。バイオリンだと、バイオ系の何かか?と思ってしまいそうにならなくもない。

とある国のかつての大統領の娘さんに、イヴァンカという名前の人がいるが、新聞ではイバンカと書かれていた。イヴァンカとイバンカでは、受けるイメージが全然違う。たまたまだとは解っているけれども、素直な気持ちをあえてはっきり云ってしまえば、イバンカだとちょっと馬鹿そうだ。もしかして、あえてそれを狙った新聞側の高等な作戦だろうか。

学校で習ったビバルディが、何か別のところでヴィヴァルディと書かれているのを見て、おお格好良い!と思った記憶も微かにある。

例を挙げればきりがないが、お役所や新聞じゃない「いわゆる民間の」文章では、まだまだたくさん使われているのを目にするので、しばらくは大丈夫に違いない。「ヴ」表記を好きな人は結構多いんだろうな、と思う。特に文章を書くことに興味があるタイプの人はきっと好きに違いない、と思っている。

ちなみに、ヴを発音するときも、それとなく下唇を噛んで、つまり発音上でも使い分けている。あまり露骨にやると変な人だと思われるから、目立たないようにさりげなくだけど。

 

8月のとあるふつうの日も二度と来ない1日

またしても7月を飛ばしてしまった。毎月一回というペースも続かなくなってきたなあ。SNSではなく、こういうダイアリ的ブログで、誰にというわけでもなくぶつぶつとぼやきや日常のことなどを書き連ねるのも悪くないと思ってこうして一応続けているわけだけど、さりとてモチベーションを維持しにくいというのもまた確か。

さて、まだ年の小さい子どもたちが、野球は嫌い、と言い出している。Eテレで甲子園の高校野球を放送しているせいで、楽しみにしていた番組が潰されているからだ。

単にそれだけの理由なんだけど、自分も同じようにして野球に対する悪感情が高まっていたなあ、としみじみする。こういうのが全国各地で積もり積もって「野球離れ」の連鎖が進むんだろうね。

自分が小さい頃にイヤだと思っていたことを同じようにイヤだと思っていた人は結構たくさんいるみたいで、それをなくすような方向に社会の雰囲気が進んでいたりするので、たまにそれを再認識して驚く。当時はマイノリティの考え方だと思っていたのだけど、意外とそうでもなかったのか、って。今みたいに色んな人の声をダイレクトに採取できる時代じゃなかったから、自分の周りの狭い範囲でしかサンプリングできなかった。大手メディアから流れてくる情報がマジョリティの流れだと思い込むしかなかった。そんな時代もあったね、というところか。今は今で、それとはまたちょっと違う方向で嫌さがある。

電力需給が逼迫

最近よく聞くけど、いつも思うのは、「電力需給が逼迫」するんじゃなくて、逼迫するのは電力の「供給」じゃないだろうか。

「需給」は単に「需要と供給」のことで、「逼迫」は「行き詰まって、ゆとりのない状態になること」だそうなので、需給が逼迫するというのは意味がよく解らない。需要と供給という対になるこのふたつの関係の成立基盤そのものが崩壊して新たなパラダイムに移行しようとしているということだろうか。

好意的に解釈して需給のバランスが崩れていることを指しているのだと解しても、需要が減って供給が増えしまうほうのアンバランスも含むだろうから、正しく状況を説明していないんじゃないかと思う。明らかに需要に対して供給が追いついていない状況を説明しようとしてるのだから、素直に「電力供給が逼迫している」で良いように思う。

電力需給が逼迫」するのは、電力業界での独自の言い回しだろうか。「供給が逼迫」するだと、供給してる側の自分達のほうに非があるように聞こえてしまうから、それを誤魔化そうとしているという意図も透けて見えそうな気がする。

「ひっ迫」表記だけは、本当にやめたほうが良いと思う。常用漢字表に掲載されてなくて読めないんだったら、漢字で書いてフリガナ振ろうぜ! そうやって漢字を覚えていくんだよ。

のんた君Tシャツと十角館マグカップ

講談社の「メフィストリーダーズクラブ」というのに入会した。

クレジットカードみたいな割と本気めの会員証が物理メールで送られてきて、それから定期的にメフィスト誌(こちらも物理メールで紙媒体)が送られてくる仕組み。年会費があって、まあまあ高い。会員用サイトでは、オリジナルグッズの販売もしていて、2つほど注文したのが、4月に届いた。

こちらは、森博嗣グッズで「のんた君Tシャツ」。ファンとしては買わずにはいられない。知ってしまったからには、買わずにはいられないのである。なお、上の3Dタイプ「のんた君」は、別な企画で当たったもので、今回のものとはまったく関係ない。友情出演である。

 

こちらは「十角館マグカップ」。そう、かの十角館に備えてあった十角形のマグカップである。絶妙なところを突かれて、気づいたら注文していた。結構なお値段だったのに、気づいたら注文していたのである。大人で良かった。初めて読んだ高校生の頃だったら、とても買えなかった。10個揃えたかったが、さすがにそれは無理だった(いずれにしても「無理」ではあるし…)。瀬戸焼きだそうである。底面(裏面)には綾辻行人のサインが入っている。もったいなくて使えないが、さりげなく普段使いしたい欲求もある。窓の絵をなくしていいから、普段使い用の廉価版を10個セットで(もちろんあれも施して)販売してくれないかな、と願う次第。